BOOKS Vol.3



 告知
   熊沢 健一著 発行:マガジンハウス  1500円+税

 末期の胃がんに侵された妻。育ち盛りの3人の子ども。ただでさえ夫は、身を切るように辛い現実に直面して、絶望感と不安に押しつぶされそうになるだろう。しかも、その夫が病気を熟知した医師で、妻に病名を告知しなければならないとしたら・・・。

 世に闘病記はあまたあり、一人ひとりに置かれた運命も人生もさまざまあるけれど、医療の最前線で活躍する医師が、妻の闘病に向き合い、その死を看取るまでの1年におよぶドキュメンタリーは、それらとはまた別の意味を持っている。すなわち、数多くの患者に病気を告知し、手術を施し、人の生死を誰よりも間近に取り扱ってきた医師が、ひとたび家族の問題として直面した場合、今までの職業的な“慣れ”に愕然とし、自分のキャリアや技術をもってしても妻を助けることができないという地獄にも似た苦しみに苛まれる人間の姿が浮き彫りになる。まさに「事実は小説より奇なり」なのだ。しかし、著者は、医師としては努めて冷静に、夫としては正直に、また家族のひとりとして克明に記録する。お涙頂戴の匂いは微塵もない。その緻密な作業には頭が下がる思いがした。

 著者の妻、育子さんは父親が開業医、妹も医師だった。夫も実家の家族も医療に携わっていると聞けば、「何かあっても安心」だと素人目には思う。しかし、「灯台元暗し」の諺通り、夫は仕事一筋、3人の子育ても妻任せという結婚生活の中で、身体に巣くった病巣は、ご本人でさえ、気づかないうちに悪化していったのだろう。なんという運命の悪戯。思えば、亡きわが友林檎の夫の父親(つまり、舅)は、大学病院の医師だった。母(つまり姑)は看護婦、長姉もその夫も医師だった。「医療の現場に近い=病気が治る可能性の高さは、必ずしも比例しない」ということを、うっすらとながら私も実感している。

 最初、著者は妻に病名と病状を告げない。告知する勇気がもてないのだ。そのストレスと孤独感に苛まれ、被害妄想やうつ状態にまで陥る。そういう葛藤を経て、妻に告知する頃には、本も中盤にさしかかっていた。

 なぜ告知しなければいけないのか。それは幸せな死をむかえさせるためである。口では幸せな死と言うが、そんなものが一体あるのだろうか。そこをずっと思い悩んだ。(中略)
人間の多くは自分がいつ死ぬかなど判らず、何も準備せずに死んでいく。だから無念さが残るのだろう。だが、育子と私には、その準備をする期間を与えられたのだ。これを有効に活用し、育子も私もそして子供たちも思い残すことのないようお別れをすればいいではないか。それしかないではないか。

 そして、発病から9ヶ月あまりたったある夜、二人は車を走らせ、へールホップ彗星のみえる湖に向かう。冷静に告知できたと思った反面、それ以降、妻の態度にそれまでとは違うよそよそしさを感じ、一抹の不安に怯える著者の心の動きは、読む者にも一種の緊張感を与える。しかも、妻の病状は日に日に悪くなっていった。やがて、感情の爆発。怒りと絶望の中で、自分の死をどう受け止めるか。これこそが、死以上の恐怖なのだ。読んでいて、辛いページが続く。自分がまるで育子さんの闘病に立ち合っているような気さえする。
 
 局面は、妻への告知から、母親を失うことを子どもたちに告知する場面へ。何度読んでも、涙がこぼれてしまう。その悲しいやり取りの向こうに、お墓の話が出てくるのだ。

  「ねえ、わたしのお墓はどうするつもりなの」
 
 告知から3ヶ月後、育子さんは旅立っていく。あらかじめ母の死を悟っていた子どもたちは、きちんとその現実を受け止めた。火葬にする必要さえ、著者は幼い末娘にわかり易く説明し、納得させた。
「死」を忌み嫌い、現実にある死さえも子どもたちから遠ざけて大人が取り繕うことは、かえって子どもたちの心に傷を深くするといわれているが、充分にお別れを言う大切さを、この本も伝えている。
 
 一周忌に合わせるように、育子さんのお墓が完成する。彼女の希望を聞き入れ、まだ話し合える時期に夫婦で設計したお墓。けれど、著者は、妻のお骨は入っても思い出の詰まっていないお墓を空しく
見つめるだけなのだ。たった1年で、大切な人を失った虚無感から脱することなど、できないのだろう。どんなに思い入れのあるお墓でも・・・。そして思い出の詰まった山登りに出かけるのだ。

 とても悲しい本なのに、読後感が爽やかなのは、妻の1周忌を経て子どもたちと出かけた山登りの場面がプロローグから始まり、各章の頭にリレーされ、エピローグにつながっているという構成にある。深い悲しみを背負いつつも味わう、生きている喜び、その先にある死へのいたわり。著者のそんな思いは、決して押しつけがましくなく、読者をとらえる。
  
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